入声(にっしょう)字

今回は、実用語学と直接関係ない、中国古代の声調のお話。直接には
関係ないのだが、実は現代中国語にいろいろと細かい影響は及ぼして
いる。最近、といっても去年の暮れ、立て続けに2冊の本を読んだ。
著者は、両方とも同じ学者で大島正二先生。中国語古代音の研究者で、
最近、物故されたと聞いている。
「中国語の歴史」 大修館書店 あじあブックス 1900円+税 2011年
「唐代の人は漢詩をどう詠んだか」 岩波書店 2600円+税 2009年

どちらも最高に面白かった。録音装置のなかった昔の発音をどう推測し、
再現するのか。ちょっとしたミステリーである。日本のYou tubeでは、
復元した唐代長安音で詠んだ「春暁」とかの唐詩を聞くことができる。
今回は、現代の普通話では消滅してしまった入声という声調について
お話したい。

今の普通話では第1声から第4声まで4種類の声調があるが、古い中国語も
同じく4種類の声調があった。平声、上声(「上」の字はshǎngshēngと
このときだけ第3声に読む。辞書で確認されたい)、去声、入声で、
のちに平声は陰平と陽平に分かれた。陰平は現代の第1声になり、陽平は
第2声、上声は第3声、去声は第4声になった。ところが、入声で
読まれていた漢字は、全て分かれて1,2,3,4声のどれかの
グループに編入されてしまった。つまり、入声は消滅してしまった
のである。入声は他と違って特殊で、音程の上がり下がりだけでなく、
音的な特徴を持っていた。語末に-p,-t,-kの破裂音(ただし、
ヨーロッパ語のように破裂させず、破裂寸前で声門を閉鎖して止めて
しまう内破音)がくっついていたのである。ここまでの記述を見て、
勘のいい方はすでにお気づきと思うが、消失したのは普通話を取り巻く
北方方言(おおざっぱに言って揚子江より北側)だけで、南方方言には、
今日でも入声は残っているのである。香港の映画や歌を楽しまれる方は、
広東語でよく「はっ、とっ、きっ、」などと詰まる音が頻繁に出て
くるのをご存知だと思う。あれが正しく入声の発音である。消失年代は
元の王朝の時代、モンゴル人は、我々日本人と同じく、この発音が
苦手で、できなかった。漢族に同化され、宮殿に収まって中国語を
話すようになったあとも、彼らは、この入声を発音できず、語末の
破裂音をことごとく落としてしまった。元朝の影響の最も強かった
北部では、こうして入声が姿を消した。ところが南部の方言では、先に
上げた広東語以外にも、客家方言はほぼ原型どおりに保存しており、
福建語(台湾でも)、上海語などはだいぶ磨り減っているが、それでも
痕跡は残っている。元朝以前に、漢字をその発音と共に輸入していた、
朝鮮、ベトナムなど周辺国の漢字語でも、もちろんくっきりと入声を
保存している。日本語はどうか。先人の涙ぐましい努力により、うしろに
本来なかった余分の母音を追加することで、-p,-t,-kを残すことに
成功した。思い切りよく豪快に切り捨てる騎馬民族モンゴル人、原型に
できるだけ忠実に、律儀に対応しようとする農耕民族日本人、この
対比がおもしろいと思う。今日の中国人に入声のことを聞くと、
北方人は全く意識がなく無知であり、それ以外の地域の人はそれなりに
理解してくれる。入声字のサンプルを少し見てみよう。

漢字、普通話(ピンイン)、広東語音、朝鮮語音、日本語音(音読み)の
順に並べる。

紱/ dé/ tak/ 덕/ トク
吉 /jí/ kit/ 길/ キチ、キツ
纳 /nà/ nap/ 납 / ノウ→ナウ→ナフ→ナプ
日 /rì/ yat/ 일 / ニチ、ジツ
铁 /tiě/ tiet/ 철 / テツ
各 /gè/ kak/ 각/ カク
一 /yī/ yat/ 일 / イチ、イツ
十 /shí/ sap / 십 / ジュウ→ジウ→ジフ→ジプ
的 /dì/ tik / 적 / テキ

という調子で、普通話以外は、全て何か(語末子音、パッチム)が
くっついた状態になっている。入声字を見分けるには、中国語
南方方言、朝鮮語、ベトナム語のうちどれかの知識があればよいが、
日本語の音読みから迫る場合は、「カタカナ2つ以上で、後ろの文字が、
キ、ク、チ、ツ、フのどれか
」になっているものがそれである。
ただし「フ」だけが厄介で、旧仮名遣いまで遡らなければならない
(上記参照)。また朝鮮語の場合は、t音がㄹパッチムに変音して
いる(上記参照)。
音が劇的に変わったものもある。「合」は古音が*ghapのような音と
されており、広東語はhapで朝鮮語も합だが、ご本家の中国語では
その後、ghap→hap→ha→heと変わっていき、日本語は、ガプ→ガフ
→ガウ→ゴウとなり、両国間で、かなり隔たりのある音になって
しまった。
入声字の説明は以上だが、この情報を利用して、次回は中国語の
漢字の並べ方(単語の並べ方ではなくて)の規則について考えて
みたい。

★本日の一文
容易走的都是下坡路
歩きやすい道というのは、全て
下り坂である。

にほんブログ村 外国語ブログ 中国語へ
にほんブログ村