2014年2月の結果と交流

2月は予想通り、あっという間に過ぎ去った。勉強の方はあまり進まず不本意な結果に終わったが、
交流面は忙しく、とても充実していた。引越しも含めてこの繁忙はしばらく続きそうな予感がする。
月末の鹿児島旅行は本当に素晴らしく、いい思い出になった。

1.1日平均1万歩
12219歩。いつもの1万2千台に復帰できた。最高16364歩、最低0歩。達成日は26日、未達日は2日。
この0歩というのは、さすがにゼロではなく、歩数計をつけずに外出もせず、日がな1日家で
ゴロゴロしていた、という意味である。体重は前月との比較で(月平均ベース)なんと1.05kg
減量できた。先月の増量に深く反省し、頑張った結果、1ヶ月の減量としては、過去最優秀の記録と
なった。しかしこれだけうまくいくと、例によって、リバウンド(中国語では、反弹 fǎntán)が
目に見えており、早くも3月は月初より、風雲急を告げている。送別会はじめ各種交流会もぎっしりと
予定が組まれており、ここから先は全く油断できない。

3.中検
3月末、最終の日曜日に受験する。受験勉強らしきものは、まだ始めていない。

5.TECC
次は6月、特にTECC用の勉強というのはない。

6.交流促進
2月はこの項目がとても充実した。まず1日は新大阪で教学研究会に参加。今回は新旧参加者の方々と、
口語風の録音のディクテーションに挑戦した。主催者のShambataさんを初め、中検2級突破を目指して、
学習されておられる方が多く、必然的にそこに照準を合わせた内容になっていっている。会の後、
有志の皆さんと引き続き食事会で交流した。ご準備いただいたShambataさん及び積極的にご参加
いただいた皆さんに感謝。次回、4月5日も楽しみにしている。22日は前回ブログでも報告したとおり、
大阪で原書会に参加した。会での発表に間に合わすため、おかげさまで、「祖國的陌生人」を猛烈な
勢いで読み終えた。ぐったりと疲れた。長編ものは本当に懲りたので、次回からは、小説にしても
何にしても、短くてすぐ終わるやつにしようと思う。さて月末は、以前より入りたかった指宿温泉の
砂風呂を目指して、鹿児島に旅行した。各地の温泉もグルメも大満足、人情も純朴で厚いし、鹿児島は
本当に素晴らしいところだと思う。西南戦争や篤姫や島津斉彬について、かなり理解が深まった。
中国と韓国からの旅行者が多く、道案内、道路標識の類は、全て日英中韓4カ国語表記になっていた。
ホテルや旅館でも、政治問題などどこ吹く風、旅行者同志楽しく会話が弾んだ。また鹿児島大学に
留学中のSさんと2年ぶりに再会した。呼和浩特大学の学部を卒業してすぐに、講師不足に悩む母校の
日本語科で教鞭を取っていたが、ようやく憧れの日本に留学が実現した。英語も堪能で、母国語のほか、
中国語、日本語とかなりのハイレベルで使いこなすquatrilingualの才媛である。私は彼女から
モンゴル語の旧文字(内蒙古では、外蒙古と違って、ロシアのキリル文字は使わない)の手ほどきを
受けたが、複雑すぎてものにならなかった。内蒙古から日本へ来る留学生は結構多いそうである。
今後の更なるご活躍を祈念して別れた。

7.翻訳力強化
2週間に一度の座学も今回の引越しに伴い、一旦途切れる。新しい土地でまた新しい先生を探さなければ
ならない。

8.ニュースを聞く
全然進捗せず。

9.音読励行
全然進捗せず。

10.ディクテーション
2月のディクテーションは毎週土曜朝の1本の課題ニュースのみ。「聴く中国語」3月号の(もうすぐ
4月号の分も)のディクテーションもやろうと思う。中検対策に効果があると思う。

★本日の学習進捗状況

1.単語帳(Campus Wide)
13冊目 10ページ目(全39ページ、1ページに30単語)

2.祖國的陌生人(6〜274ページ)
読了。

3.中国語作文−その基本と上達法(1~253ページ)
46ページ目

4.音読「三国志演義」(10−67ページ)
27ページ目

5.音だけを聞いて長文を暗記する「耳が喜ぶ中国語」(全110課) 
13課

6.論説長文読解「ビジネスリテラシーを鍛える中国語 I」(1課〜30課)
進まず。

•祖國的陌生人 p104 (北京故事)
北京的高速路兩旁,長頸鹿、獅子、河馬依舊憨厚的站在巨型的畫板上。我隱隱擔心,從非洲草原
到來的它們,能夠抵禦北京冬日的嚴寒和空氣裡高密度的粉塵嗎?它們隨著非洲四十八個國家的
領導人而來,卻沒有和他們一起離去。二○○六年十一月的北京,空氣裡是非洲的氣息,電視畫面上,
報紙的版面上,馬路的看板上,甚至我們家樓下的一家洗浴中心的門前,都立著「熱烈歡迎中非論壇
北京峰會」的燈箱。這氣氛讓我想起了冷戰年代,中國是第三世界國家的領袖,即使我的父母一代中的
很多人仍餓著肚子。糧食還是源源不斷的被運到了非洲。周恩來曾語帶感激的說:“是非洲兄弟們
將我們抬進聯合國的。“
北京の高速道路の両側には、キリン、ライオン、カバが相変わらずのんびりと巨大なキャンバスの
上に立っている。アフリカの草原からやってきた彼らは冬の北京の酷寒やPM2.5に耐えられるのだろうか。
アフリカ48カ国の指導者に伴ってやってきた彼らなのに、指導者たちと一緒に帰っていかなかった。
2006年11月の北京は、アフリカの雰囲気が満ち満ちていた。テレビでも、新聞紙上でも、道路の看板でも、
また我が家の下の健康ランドの入り口の電飾にまでも、「中国―アフリカ・フォーラム北京サミット
熱烈歓迎」の文字があった。この状況を見て、私は冷戦時代を思い出した。当時中国は第3世界のリーダーで、
われわれの両親の世代の多くの人が、おなかをすかせているときに、食料が陸続とアフリカへ
運び続けられていたのである。周恩来はかつて、ありがたそうに、「アフリカの兄弟たちが我々を支えて、
国連に加入させてくれたのだ。」と言っていた。

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