翻訳・通訳するということいついて

翻訳・通訳は、私の最も苦手とする分野である。相手の言うことを
聞き取り、それを別の言語に訳して、発話または記述する。会話も
総合力を要求される高度な作業であるが、翻訳・通訳となると、
遥かにその上を行く難度である。当然、会話と同じく、発音・語彙
・文法、どれが欠けていてもいけないし、通訳の場合は更に瞬発性も
要求される。日本語で話をしているときは、ずっと日本語のままの
方が楽だし、中国語で話をする場合も、日本語や他の言葉を導入
しないほうが、やりやすい。2つの言語の間を短い時間に頻繁に
往復するのは本当に大変である。私の場合、5分ほど張りつめた
状態で通訳をしていると、こめかみのあたりがキューンと痛く
なってくる。つくづく自分はこの作業に向いていないなあ、と思う。
ところが、世間が語学学習者に求めるのはやはり、通訳・翻訳である。
普通の人から、「リスニングしてみてください」とか「音読して
みてください」とかいう依頼は来ない。しかし、「翻訳・通訳して
ください」、「この外国語文はどういった内容ですか」というのは、
会社などでもよく聞かれ、頼まれる。通訳・翻訳こそが語学学習者が、
社会のためにお役に立てる晴れ舞台なのである。というわけで、
できるようになりたいとは思うのだが、話はそう簡単にはいかない。
練習方法は、かなり強烈なレベルの語彙力強化・リスニングの練習
ブラス作文(文法)の練習であるが、口が滑らかに動くように
音読もやり、またシャドウイングだの、リプロダクションだの、
通訳独特の訓練もたくさんある。通訳・翻訳がそれだけで立派な
職業として成り立っている、という事実から見ても難度の高さが
計り知れる。同時通訳なんか、完全に神業に見える。瞬発性が
要求されない、書いたものの翻訳でも、外国語文というのは
滑らかな文章に訳そうとすると骨が折れるものである。西洋の
諺に、”Traduttore, traditore”というのがある。「翻訳者は
裏切り者」という意味だが、ことほどさように、文化・風習の
異なる民族の言葉を、原義を大切に、忠実に移動させるのは
至難の技である。たとえ少しでも、入り口だけでも、という
気持ちで、現在、中日、日中翻訳の練習はほぼ毎日している。
自分がなんとなくわかる、というのと、しっかりした文章にして、
人さまにお見せする、お聞かせする、というのは全然別次元の
話なのだと思う。
それからKYとかいう言葉が流行ったが、通訳の場合、場の雰囲気も
関係してくる。私の失敗談をひとつ。中国人のお客さんと日本人の
間に立って通訳したことがある。中国人はやたらと、料理や食材・
調理方法などについて、延々と話し続けていた。これは、きっと
おなかをすかして、早くメシに連れてけ、という意味なのだろうと
勝手に解釈して、そのように日本人に伝えた。その間の具体的な
内容については、ほぼ何も訳さなかった。この判断は結果的に
正しかったのだが、レストランに行ってから、「さっきの話」を
引用しながら、料理の話を続けられ、さっきの話の具体的内容なんか
全然覚えていないどころか、気にもしていなかった私は大いに困った。
両サイドの人に、きちんと翻訳していなかったことがバレてしまい、
恥をかくことになった。やはり、どんな場合でも、通訳たるもの、
逐一できるだけ丁寧に訳していくことが大事なのだろうと思う。
「日本語だけ世界」や「中国語ワールド」では考えられない、
一種独特の境地だと思うが、まあ、本当に疲れる話ではある。


★本日の一文
对于不知足的人,没有一把椅子是舒服的
足ることを知らない人にとっては、すわり心地のよい
椅子など存在しない。

にほんブログ村 外国語ブログ 中国語へ
にほんブログ村