大人の常識

先日、名古屋三省堂の中国語書籍コーナーで本を見ていたとき、
上の本に目が止まった。中国語文は、呼応表現の知識と常識が
あれば、前からどんどん訳せていく、という内容である。
そこまで言って委員会の人が書いたに違いないが、作者のいう
呼応表現とは、「不但−而且」、「因为−所以」のような
中国語だけでなく、日本語の「全然ーない」、「ただー
ばかりだ」、「あたかもーようだ」のようなのも含んでいる。
私は呼応表現には人一倍、気をつけているのに、それでも
いまだにわからない文章に出くわすということは、私には
大人の常識が欠如している、ということになってしまう。
そんなことになっては、ご近所の評判にも直接影響が
出てくるので、慌てて本を手にとって、ひもといた。
ひもとくだけにしておけばよいものを、さっき地下の金券
ショップで9600円で買った1万円の図書カードを
握り締め、足はほぼ条件反射的にレジの方向へ移動を
開始していた。こんなことばかりしているから、本じゅう
家だらけになって、家内に叱られる。

内容は、ほぼ一語一義的に、中国語単語に日本語訳語を
あてがい、呼応表現に注意しながら、それを羅列して
「前段階日本文」のようなものをまず作り上げる。
そしてあとは、「大人の常識」を駆使して、それを
まともに通じる日本文に変えていきましょう、と、
簡単に言えば、そういうことになる。この変換が結構
大変そうであるが、作者によると単に慣れの問題だけだ
そうである。

例文を紹介する。たくさん紹介すると、それだけで頭痛が
痛くなってくるので、ひとつだけにしておく。

大家都知道安国寺有个聪明的小和尚叫一休。

大家=みんな
都=全部
知道=知る
安国寺=安国寺
有=そこに
个=とある
聪明=賢い
的=そのような
小和尚=小坊主
叫=名前は
一休=一休

「みんな全部知る、安国寺そこに、とある、賢い、
そのような小坊主、名前は一休」

「みんな安国寺には、一休という名の賢い小坊主が
いることを知っている」

9世紀に阿倍仲麻呂が唐に渡り、李白と親交を結んだと
言われている。仲麻呂は優れた漢学者だったそうだが、
突然、長安に渡って、市井の人と問題なく会話ができた
とは、とても思えない。駅前留学のなんたら中国語学院も
「NHKテレビで中国語」もなかった時代である。想像するに
最初は上記のような方法で、中国語を「解読」していった
のではないだろうか。その意味で、これは非常に原始的な、
また根源的な、外国語習得方法だと思う。異言語話者同士が
新たにピジンを生じさせるのに、1時間とかからない、
という話を聞いたことがある。この方法も、天才的な
ひらめきによるものかもしれない。

さて、この本をヒトサマにオススメするかどうかだが、
オーソドックスな方法で、すでに勉強されている方には
全く必要のない本だと思う。かえって混乱させるだけなので
この種の本には手を出さないのが一番である。いまさら、
仲麻呂の追体験をする必要はあるまい。
ただ、実用語学学習の最終目的にして最大難関である、翻訳
作業で手を焼いておられるかたには、翻訳(通訳も)について
改めてじっくり考えさせる、示唆に富む本だと思う。
作者は技術系の人で、杭州で仕事をされていたときに苦労
されて、この方法を編み出されたらしい。「はじめに」に
書かれていた一文が、苦労人ならではの指摘で、うなって
しまった。最後に引用する。

「人は言う。中国語は英語に似ていると。これは、間違いだ。
確かに、言語構造が、動詞ー目的語、前置詞ー目的語、となる
ところは似ている。だが、文全体の構造は、英語よりも
遥かに日本語に似ている。それが証拠に、日本人は英語を
10年学習してもまともに喋れないが、中国語なら2,3年で
できる。まじめにやれば、1年でもできる。よくよく中国語を
調べてみると、論理構造が日本語によく似ていることが大きい。
学習を進めれば進めるほど、そのことが分かる。」

P.S.
最近、この本の姉妹版、「日本語を単語ごとに前から中国語に
翻訳する」が上梓された。和文中訳の手引書である。ここまで
くると、もうただただ、作者のパワーに恐れ入るしかない。

★本日の一文
毁人者,自毁之。誉人者,自誉之。

人を誹謗することは、自らを誹謗するに等しく、
人を褒めることは、自らが褒められているに等しい。

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