才能と性格

語学を勉強するのに才能は必要か、とよく聞かれる。才能は
まず必要ないと思う。しかし、性格の向き不向きはあるのでは
ないだろうか。私の考えるポイントは、以下の2つ。

1.粘り強い性格
よく言えば、「粘り強い」だが、悪く言えば、「執拗な、
しつこい」ともいえる。ストーカー行為は犯罪だが、その
くらいの粘着力が必要だと思う。どうしても、暗記することが
多く、暗記のために反復して練習、覚えたことを忘れて
しまえば、また1から反復学習、最初からやり直し・・・。
カラッとした、竹を割ったような性格よりも、ねちねちと
粘れる性格が圧倒的に有利だと思う。
また、語学が上達していく過程では自分と向き合う瞬間が
増える。気の置けない友人と楽しくお茶しながら、伸びて
いくのではないのである。ひとり引きこもって、発音を練習
したり、文章を暗記したり、文法を調べたり・・・、こういう
行為を通じてしか上達する望みはない。となると社交的な
明るい性格よりも、孤独にひとりだけで過ごす時間が
苦にならない、ジトっと暗い性格が向いている。

2.「外なるもの」をそのままに
上記の1.は、かなり多くの学問に共通かもしれないが、
2つめはけっこう語学学習独特の性格、というより、感性と
言ったほうがいいかもしれないが、特徴のひとつだ。
耳慣れない発音や、単語や、文法など異文化に接したとき、
人はこれらを排除しようとするか、受け入れるにしても
自分に合うようにアレンジしようとする傾向がある。
食べ物に例えれば、油っこいステーキをナイフとフォークで
食べなさい、デザートはティラミスですよ、といわれたとき、
どういう行動を取るか。いや、私はお箸で食べたいから、
食べやすい大きさに切ってください、それから〆はあっさりと
のり茶漬けにしてください、と答えるのは「外なるもの」を
受け入れられない人の態度である。「外なるもの」を
自分が慣れ親しんできた文化の中へ引きずり込んで、
折衷型を作り出そうとする、日本人は特にこの能力に
長けている。食事の範囲ならこれでもかまわないと思う。
スパゲッティの上に、たらこと青海苔を乗せて、「和風
イタリアン」にしても、大丈夫である。ところが、語学の
場合、これが大いにマズい。我流や和風は、語学の大事な
目的のひとつ、コミュニケーションの構築に大きな障害と
なる。ヘタな発音では、いくら頑張っても通じない、
聞き取れない、という事態が起こる。言葉の向こう側にある
異文化の吸収という面でも見事に失敗する。素直に
「外なるもの」を「外なるまま」に受け入れることができるか
どうか、このあたりが分かれ目になると思う。たらこ
スパゲッテイは、どんなにおいしくても、「国際イタリアン
・グルメ・コンテスト」でグランプリに耀くことはない。
審査員が全員外国人だからだ。この意味で、外国語の読み方
として、カタカナで読み仮名を振ったり、日本語の
ダジャレで単語を覚えていくような方法は、合目的的ではなく、
努力は全く報われず、瞬間的な自己満足に終わる。

★本日の一文

学外语如逆水行舟,不进则退

外国語の勉強は流れに逆らって、舟を漕いでいく
ようなものだ。前進しようとしなければ、すぐに
後退する。

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