否定の虚辞 その4
さて最後に残った一番ややこしい例が、「差点儿」である。
書面語では「险些(xian3xie1)」というのもある。意味は
「もう少しで」、「すんでのところで」ということだが、
この単語の説明には、まず、2つの場合に分けなければいけない。
1.事象が話者にとって望ましくない場合
A 我差点儿摔倒
B 我差点儿没摔倒
A,Bともに同じ意味である。さて、この人は結局転んだのか?
正解は「転ばなかった」。よって訳文は「わたしはもう少しで
ころぶところだった」となる。「没」は虚辞であるといえる。
2.事象が話者にとって望ましい場合
C 我差点儿就见着了
D 我差点儿没见着
このC,Dは意味が異なる。その分だけ良心的である。さて、
この人が無事に会えたのはどちらの文だろうか。会えたのは
Dの方、Cは実際には会えなかった、と言っている。否定詞の
あるなしと、事の成否が逆転している。Cの訳は「わたしは
もう少しで会えるところだったのに」、Dは「あやうく会えない
ところだった」となる。
BとDは形態的に全く同じなのに、事の成否は正反対である。
その判断基準は、望ましいか、望ましくないか、である。
しかしアナタ、望ましいかどうかなんて、ずいぶん主観的じゃあ
ありませんこと? 「跟他见面」となっていて、相手が
周杰伦や、大きなオーダーをくれそうな見込み客だったら
是非お会いしたいし、組関係の借金取りや、わたしを捨てて
他の女に走った元カレだったら、会わない方が望ましい。
本人がどう思っているかまで、探らないと意味が取れないとは
困ったものである、と思う。コミュニケーションの手段という
言語の持つ一側面を考えれば、形態面だけで文意が正確に
把握できる方が、それこそ「望ましい」と思う。
これまで紹介した以外で、否定の虚辞の例をご存知あれば、
是非ご教示いただきたい。
★本日の一文:
马不吃夜草不肥,人不拿外快不富
馬は夜食の飼葉を食べなければ太れない。人は給料以外の
収入がなければ金持ちになれない。