広州と上海

4泊5日、年末年始の休暇を利用して、中国旅行に出かけた。2年ぶりの中国、その変化ぶりを
見るのが、楽しみだった。もちろんメインの目的は旧友との交流である。第1日目は関空から
広州へ。機中で飛行行程を見ると、上海の上空を通っていくようになっている。なので、
あまり直線最短コースではなく、4時間半を要した。白雲空港で、迎えに来てくれた
旧友第1号に再会。一昨年、日本に遊びに来てくれて一緒に東京見物に出かけた女性である。
日本の神社仏閣、いたるところで願を懸けまくった甲斐あって、最近、素敵な年下の
彼氏ができた。ほどなく彼氏も登場して夜は3人で会食となった。第2日目は、もう一組の
若いカップルが合流してくれた。広州で日本人に中国語を教える中国人先生と、その教え子
兼彼氏、つまり日本人である。5人でまず、中山記念堂を参観して、民国成立の歴史に関する
知識を深めた。知らなかったが、孫文は日本で結婚したそうである。媒酌人は日本人で、
日本語で書いた結婚誓約書が展示されていた。そういえばたしか、須磨に記念の建物が
あったような気がする。それから郊外の嶺南印象園という遊園地に出かけた。ここも
遊戯施設以外に古い広東地方の文物が展示、紹介されていて、とてもいい勉強になった。
遠足の小学生も来ていて、大人も子供も楽しめる場所になっている。それから市内に戻り、
少しぶらぶらして、夕食の鍋物屋へ。ここでさらに3名の女性が合流した。一人は、
10年来の付き合いで、日系一部上場企業に勤める才女。個人旅行でも、会社の出張でも、
すでに再三日本を訪れている。身に付けた日本語のレベルの高さにはただただ驚く
ばかりである。あと二人は、ほぼ5年ぶりの再会となった女性で両方とも、やはり広州の
日系企業に勤めている。広州(深圳や東莞を含む)は気候も暖かく、学んだ日本語を
生かす機会が豊富で、しかも上海よりも暮らしやすいと、異口同音にのたまう。
暮らしやすい理由を問うてみると、生活のリズムが緩やかで、プレッシャーを感じる
ことが少ない、給料水準はやや低いものの、物価水準はぐっと低く感じられ(上海が
めちゃくちゃ高いため)、何よりも外地人を受け入れる風土があって、人が
スノビッシュでない。上海だと外国人は受け入れても、外地人は受け入れてくれない。
つまり、彼女らにとっては、総合的に生活そのものが結構きつい、ということに
なるそうである。言われてみると、思い当たる節があるにはあるが、常に「外国人」で
あった私には、もろ手を挙げて賛成とは言いにくい。ともあれ、いいじゃないの、
幸せならば、という感想だけを述べておいた。円安が進行中なので、2015年は何が何でも
日本に遊びに行きたい、と決意表明をしてくれた。個人の旅行は、保証金として10万元を
6か月間、銀行に預けておかなければならない、という制度は不変らしい。日本の
メディアは、盛んに日本のビザ取得緩和を報じてはいるが、まだまだ、実際には
厳しいのだろう。3日目は朝から近所の市場を一人ぶらつき、日用品を物色してみた。
靴下を買った。午後は最初のカップルの見送りで、一路上海へ。虹橋へは午後6時の到着、
2時間のフライトである。2年以上前から、整備工事をしているが、虹橋は第1ターミナルと
第2をくっつけて、巨大な飛行場に変貌しつつある。お出迎えは、2年ぶりに会う
若いカップル。最近、郊外に新築のマンションを買い、「宅奴」になったと笑っている。
内装はまだで、実際に住めるようになるのは2016年以降、市内のアパートで同棲は
しているがまだ籍には入れていない、とのこと。新婚旅行は是非、日本へと、
お誘いしておいた。3人でタクシーに乗り、予約しておいたホテルに向かう。大晦日の
上海は夜でも結構混んでいる。外灘で花火を見に行こう、という意見もあったが、
寒そうなので止めにした。それで、元旦の朝、ニュースを見ると36人死亡の大事故、
何か運命的なものを感じずにはいられなかった。たとえ事故に直接、巻き込まれて
いなかったにせよ、大混乱は逃れなかったことを思うと、できるだけ、祭り気分の
人混みは避けた方がいい、というのはひとつの教訓かもしれない、と思った。
若い女性と子供が多かったと聞く。ご冥福をお祈りしたい。それで、無事安全に
元旦の朝を迎えられたかというと、これがまたとんでもない目に合うことになる。
朝、昔住んでいたあたりの街並みの変化が見たくて、ひとり散歩に出かけた。以前よく
通っていた店がなくなっていたり、口座を開設した銀行が別の銀行に変わっていたり、
予想通り、たった2年の間に大変化が起こっていた。興奮してカメラに収めようと
していて、道の悪いところで、毛躓いた。膝をすりむき、眼鏡のフレームを歪めた上に、
顔面を打って流血まですることになった。眼鏡は近くの眼鏡屋で、親切にも無料で
応急措置をしてもらい、なんとかなったが、顔が無残である。それでもそのまま、
ひとりタクシーに乗り、待ち合わせの本屋に向かった。昨日の若いカップルは驚いて
いたが、近くのファミマで絆創膏を買ってきてくれて何とか傷口だけはふさいだ。
元旦からこの調子では、今年1年本当に思いやられる。自分も含めて、皆本好きなので、
各階、各コーナーの本を見て回るだけで、楽しく過ごすことができた。参考書を含めて
10冊ほど買った。そのあと近くのスタバにしけこんで、小説談議に花を咲かせた。
更に豫園で雨傘を2本買った。日本ではあまり見かけない、巨大で骨の太い、
傘というよりパラソル系の代物である。2本で75元。結局、上海では名所旧跡や行楽地へ
足を延ばすことなく、市内探検で、最終出発日も含めて、終わることになる。それでも
夜は、なんと10年間、連絡のなかった(あとで意外に近いところに住んでいたことが
判明して2度びっくり‼)旧友が友達づてに、探してくれて、10年ぶりの再会となった。
一風堂の白丸ラーメンをすすりながら、積もる話は尽きることがなかった。在学中は
線の細い、おとなしい子だったが、さすがに10年間も大都会の水に洗われて、
たくましくなっていた。本人もそのことを自覚していて、やはり四川省の楽山から
思い切って出てきてよかったと思っているらしい。素晴らしいと感動すると同時に、
あとは早く素敵な彼氏を見つけて、幸せになってほしいと思った。芸術関係の仕事で、
2015年中に研修旅行でまた日本へ来る予定があるらしい。日本語も見違えるほど
流暢になった。今後は定期的に会いましょう、ということになった。最終日の朝は、
またひとりで七浦路の散策に出かけた。道や店がやたらときれいになっていたり、
偽ブランド品を売りつけようと人がしつこく付きまとうということもなくなり
(偽ブランド品そのものは健在)、ここもまた変貌を遂げようとしている。セーターと
手袋と防寒耳当てを買った。今回出会った23人の新旧の友達の全てとプレゼントの
交換ができたのは、よかったと思う。関空に着陸直前で上海航空機が、暴風のため、
1回目の着陸トライをあきらめ、再度上昇して15分ぐらいで態勢を立て直し、
1周余分に旋回してから、再び滑走路に入ったりと、けっこう波乱万丈の旅行だったが、
本当に楽しめた。年のせいか、人の熱い気持ちが一段とうれしく感じられるように
なった。だんだん腰が重くなるが、足が動く限りは、せいぜい旅行をしなければ
いけないなあ、と思った。

顔より大きい綿菓子

中山紀念堂

マリオネット

一風堂白丸

10年ぶり

オシャレになった七浦路の店

カップル

嶺南園



先輩と後輩

★本日の学習進捗状況
1.単語帳
14冊目 5ページ目(全29ページ、1ページに30単語)

2.百年中国散文精选(1〜425ページ)
19ページ目
1.洪水与猛兽 蔡元培  読了
2.少年中国说 梁启超  読了
3.秋夜    鲁迅   読了   
4.雪     鲁迅   読了
5.从百草园到三味书屋 魯迅  読了
6.故乡的野菜     魯迅  読了

3.中国語作文−その基本と上達法(1~253ページ)
46ページ目

4.音読「三国志演義」(10−67ページ)
27ページ目

5.音だけを聞いて長文を暗記する「耳が喜ぶ中国語」(全110課) 
13課

6.論説長文読解「ビジネスリテラシーを鍛える中国語 I」(1課〜30課)
進まず。

•祖國的陌生人 p248(毛之後的中國)
蘇聯撤軍後,他還目睹了令人瞠目結舌的內戰。那些吸食完毒品的阿富汗戰士跟著坦克
從善山坡上衝下來,神情興奮無比,他和另一位攝影師就在距離不過一百米的一個
有籬笆的小房子內,不停地拍,沉浸在同樣的興奮裡。回來沖照片時,他才覺得後背發涼,
「他們手持的那個火箭筒,如果稍微歪兩步,我就被轟掉。」
ソ連軍が撤退した後も、彼はぞっとするような内戦を目の当たりにしていた。麻薬を
吸飲して興奮したアフガニスタンの戦士たちは戦車につき従って山の上から突撃してきた。
興奮しきった面持で、彼ともう一人のカメラマンは100メートルも離れていない垣根のある
小さな小屋から、戦士たちと同様の興奮に浸りながらシャッターを切りまくった。戻って
写真を現像しながら、彼は背中に冷たいものが走るのを感じた。「兵士たちが持っていた
バズーカ砲の位置が、もし数歩でもずれていたら、僕は木端微塵だったんだな。」

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