「探す」考
フランスに留学している中国人の学生さんから、突然国際電話を
もらった。新年の挨拶をもらって、とてもうれしかった。授業の
関係で、春節にも一時帰国できないそうだ。会えると思ったのに、
残念である。話をしながら、ふと思い出した。
フランス語の「探す」という言葉、chercherは面白い。Cherche-moi
a' la gare 「駅に迎えに来てね」。これを「駅に探しに来てね」と
訳して笑われた思い出がある。朝鮮語は「探す」と「見つかる」が
同じ単語だ、「探したけれど、探せなかった」では、何のことか
わからない。正解は「探したけれど見つからなかった」としなければ
いけない。中国語の「找」だって負けていない。意味範囲が広い。
「一百元找得开吗?」「百元でおつりは出ますか」のように、
つり銭を出す、という意味で使われる。
去年の10月新宿で、男女二人の中国人留学生と食事のあと、
ぶらぶら散歩した。龍慶君は、ドトールとクロネコヤマトの
掛け持ちバイトのお金で買った一眼レフのデジカメが自慢だ。
オートシャッター機能を使って、3人の記念写真を撮ろうと
するのだが、カメラを安定して置ける場所が近くになく、
なかなかうまくいかない。そこで、麗娜ちゃんがすかさず、
「龙庆,你找个人吧」と言った。「人をひとり探しなさい」
では、あまりにもオマヌケな訳になる。誤訳といっても
いいだろう。日本語としては、やはり「人に頼んだら?」
くらいの感じと思う。日本人ならシャッターを人に押して
もらうのだから当然「お願いする、頼む」という概念が
先にたつ。中国語は、自分の意識や視野の外にあるものを
内側に引きずり込む、という感覚なのだと思う。だから
まわりに幾千万の人がいようと、それは意識の外にあるので、
実用に供さない、群衆の中から、ひとり引っ張って来い、
という感覚なのだろう。ちなみに「見つかる」方は、
「找到」という。やはり、「探す」と「見つかる」は
密接な関係にあることを暗示している。
★ 本日の一文
现在过的每一天,都是我们在余下的生命中,最年轻的一天。
今過ごしている毎日は、今後の人生において、「私たちが
最も若かった1日」となるのである。